多分、駄文

問わず語りの極み

本②

最近あまり本が読めていなかったが、直近で読んだ2冊の本について感想などを書いていく。

 

1冊目はレイモンド・カーヴァー『愛について語るときに我々の語ること』である。

村上春樹訳のもので読んだ。終盤になるにつれて面白かった。特にタイトルの秀逸さが素晴らしく、「私の父が死んだ三番目の原因」や「ある日常的力学」などは印象に残る。私は村上春樹の魅力は、会話劇にあると思っているのだが、訳においてもその絶妙なニュアンスが維持されており、そのうえ原作の世界観を(おそらく)壊していないだろうと思えた。未熟さ故、愛について、私はその多くを経験していないが、死ぬ間際に思い出すのはこういう本かもしれないと思った。

 

2冊目は佐藤友哉フリッカー式 鏡公彦にうってつけの殺人』である。

メフィスト賞の系譜を受け継いだ怪作といえるだろう。京極夏彦などの影響がみられつつも、そこに作者特有の黒胡椒が混ぜ込まれており、スパイスが存分に効いた作品として仕上がっている。舞城などが好きな人に、この作品が嫌いな人はいないだろう。佐藤友哉は初読なので掴めていないが、舞城のような「愛の作家」なのだろうか。これから他の作品も読んでいきたい。

映画①

今日見た映画と感想を。

 

一本目は『NOPE』

序盤は、不気味さや不穏さが存分に匂わされていて、ぞくぞくした。特にジュピターパークやチューブマンなどの無機物が効果的に怖さを演出していた。

中盤は、緊迫感の方に焦点が当てられていたように感じる。血や無機物の雨のシーンは迫力があったし、窓を突き破る馬の像なども良かった。あと「動かない雲」というだけで恐ろしさがあんなに表現できるのか、と思った。

まあここまではホラーの展開にはよくあるかな、とも思ったが、終盤から展開が一転する。チェーホフの銃とはよく言ったもので、今までの要素のほぼ全てを回収しながら、未確認生物をカメラに収めるために奮闘するという展開に移っていったのは驚いた。ジージャンの異形さや神々しさのようなものも、ホラー特有のおどろおどろしさとは違っていて見ていて楽しかった。この手の映画でありながらハッピーエンドだったのもそれはそれでよい、と思う。

牧場という舞台もよい。広い荒野という殺風景さが序盤の不気味さにも、終盤のジージャンとの対決の壮大さにも効果的であった。さらに、馬というモチーフも良い。最初はヨハネの黙示録の死の騎士の象徴かな、と思っていたのだが(アブダクションは牛のイメージだったので)、騎士は救済の象徴でもあり、最後のカタルシスに通じているのだと納得した。

ただ、浮いてた靴は何だったんだ?

あとAKIRAのバイクシーンパロはやっぱいいな。

 

二本目は『すずめの戸締り』

なんか今更感があるが、せっかく金ローでやってたから観た。

全体として受けた印象は村上春樹の『神の子どもたちはみな踊る』内の短篇「かえるくん、東京を救う」を拡大して上手く新海誠風に改変し、東日本大震災などを経験した現代の日本に落とし込んだ素晴らしい作品だと思った。

主人公すずめの動機が恋一直線だったのも興味深かった。新海誠作品は『君の名は』と『天気の子』しか見ていないが、特に『天気の子』に顕著だったように、世界か目の前の一人かという選択を重要視しているように見える。今回も草太が要石になるか、東京にみみずが落ちるかという選択があった。僕はRADWIMPSも好きなのだが、「ます。」という曲の歌詞に

「あなた一人と 他全人類
どちらか一つ 救うとしたら
どっちだろかな?
迷わずYOU!!!!」
という歌詞がある。こういった価値観の共鳴が今の結びつきを生んでいるのかもな、と思った。
震災というテーマの中で、シリアスに振り切らず人と人とのつながりの温かみや過去との向き合いなどに着目していた点もよかった。戸締りという行為に込められた意味や常世での幼いすずめとのやり取り、黒塗りの日記など印象深い点を挙げればきりがないほどである。改めて、震災に向き合う機会にもなったし、とにかく素晴らしい作品だったと思う。
あとやっぱ映像が格段に美しい。
廃墟行きたい。

 

本①

直近で読んだ本である舞城王太郎九十九十九』について感想などを話していく。

記念すべき初めてのブログの、初めての記事に取り上げるような本では絶対にないのだが、本当にたまたまこの本を読んだ時期とブログ開設時期が被っただけである。

まず読んだ感想を端的に言えば、「なんじゃこりゃ」といった感じから入って、早すぎる展開についていけなくなり、最終的に「もう、やりたい放題だろこれ」と苦笑いしつつ読了した。

始めに断っておくと私はこういうハチャメチャな話が大好きである。

というのも、いわゆる王道や古典ミステリーといったものに少し飽きが来ているからだ。もちろん、よくできたトリックやワクワクする設定などを楽しむ心を忘れたわけではない(と思いたい)が、こういう飛び道具のような本が刺激になって、一度ハマると抜け出せない。

そんなこんなで、私はこの本は面白いと思った。終盤少しだれる点があったように感じたが、カオスな展開をまとめるには強引にならざるを得ないのは当たり前かもしれない。その展開を作ったのも舞城自身だけど。

何点かのポイントに触れていく。

一点目は、連なる作家たちの名前について。

この本自体、トリビュートでもあり、作中作などのメタ的構造を採用した作品だが、いたるところで現実の作家名や作品名があげられていたのが面白かった。最初の方に作品名が連なってあげられたところではミステリーファンとしてワクワクせざるを得なかった(ディスられたが)し、笠井潔お得意の大量死理論(戦争の大量死に対するアンチテーゼとして「意味のある死」が用いられた推理小説が流行したする説)を真っ向から否定していたにも関わらず見立てに使われていたりしていて面白かった。

トリビュートだからといって、清涼院流水は訴えたら勝てるんじゃないかというレベルで、ぐちゃぐちゃになっていたがそこも含め楽しめた。まあ本人も似たようなことを自身でやってるので問題はないだろう。

 

二点目は、愛について。

「鈴木くん」が逃亡していた時点で察していたが、やはり今回も愛の話だったんじゃないかと思う。舞城作品をたくさん読んでいるわけではないのだけれど、舞城王太郎が愛を非常に重要視していることはよくわかる。それは家族愛でもあるし、恋愛でもある。今回もそうだった。結局は、HUNTER×HUNTERのドキドキ二択クイズでゴンが言っていたみたいなことをしたかったのかな、思った。本当はもっと深いことを言っていたのかもしれないが、浅い人生経験の私にはわからなかった。おどろおどろしい見立てや大量殺人も舞城なりの照れ隠しにすら思えた。

 

三点目は、神について。

作中では、神についての記述がいくつも出てくる。殺人の見立ても、神話に関連しているし、登場人物である九十九十九自身も「探偵神」である。後者に関してはこれは後期クイーン問題の第二に対する皮肉というかアンチテーゼのようなものでもあるだろうし、オリジンである清涼院流水も少なからず意識して書いただろう。興味深かったのは、作者=神と置く記述についてである。メタ的小説からすれば斬新なものでもないのだが、見立てと合わせることで本当の神としての構造を物語上に引き出していたのは面白かった。さらに興味深いのは、匂わせられていたのに舞城王太郎自身の名前を登場させなかった点だ。清涼院流水はあんなに出てたのに。『暗闇の中で子供』で少し述べていたように、自身を小説というフィクションから一定の距離におきたいという気持ちがあるのだろうか。

 

なんとなく思ったことを書き連ねてみたが、結論としてはやはり「やりたい放題な作品ではあったが面白い」という感想だ。

未読の人に向けて。

清涼院流水舞城王太郎の作品を読んでなくとも、楽しめるは楽しめるが、多少読んでいるほうが間違いなく面白みは増す。また、ミステリーやメタフィクションに慣れていない人が読むと仰天して腑に落ちないと思うかもしれないので、ある程度慣れた人や、寛容な人におすすめする。

いろんな人にディスコ探偵を勧められるのでそちらも読まなければ。

それでは。